下品を美化する不躾極まりない嗜みのような下品
ココ・シャネルは「ラグジュアリーの反対は貧困ではない、下品だ」と言った。
リリース当初は成功者の証、地位の象徴、なんなら最大のセックスアピールとも言えたiPodやiPhoneも今じゃ馬場のロータリーでひび割れて転がっているし、ヴィトンの財布に上下スウェットで地元を走ってるマイルドヤンキーなんてのも溢れる今、真のラグジュアリーはブランド物ではないのかもしれない。
なんて思っていたが、そんなものハイブランドに縁のない下品な庶民の幻想だった。
先日の最終スパンクハッピーお披露目ライブでODとボスが身にまとっていたステージ衣装はどうだ。PRADAのシャツ、UNITED NUDEのブーツ、QBRICKのグラス。クール・ストラッティンのフルオーダー・タキシード、メゾンキツネのTシャツ。
正直何が何だかわからないのだけど、あれがセクシーか、あれがセックスアピールか。
ボス、いやあの時は菊地成孔だったたけど「てめえのショーケースライブにグッズのTシャツ着ねえでスミマセン、これ六万するんすよね。」とシャネルのTシャツを摘んで言っていた。
親に着せられたアバクロやポロで渋谷のボーリング場を転げ回るようなガキだった自分には培われなかったもの。ブランドを着たところで下品には変わりがないのだ。
女性の化粧や髪の毛などの身嗜みを、女性任せにしていていいのだろうか。美容師ばかりがモテて、メイキャップアーティストにオネエ様(女性らしさを持つ男という意味で)がなるのは我慢ならないと思った。
綺麗なもの、美しいものに対する見聞のなさを恥ずかしく思う。
しかし、兎にも角にも金がない。
加えて言うなら、上質な洋服を着こなす自信もない。肩幅と胸筋が無いという意味である。
勘違いしていた。
ラグジュアリーに意を唱える存在として無印良品が生まれ変わり、断捨離、エアクローゼットなども出てきた。物への執着がないのは貧困とは別のベクトルかもしれないが、シャネルの言葉を信じるならそれは下品に近い生活ということもあり得る。
ただ、上品でいたいと思わなくても生活はできるし、セックスもできる。
容姿や洋装以外の面で上品かつセクシーな人をたくさん知っている。
ラグジュアリーはもともと限られた顧客のためだけの商売で、裕福な人はハイブランドの購入に躊躇うことがない。誰も傷つけない線引きが確かにある。
無用な憧れは嫉妬となり身を滅ぼすことを人は知っている。
だから、ブラウン管だろうがハイビジョンだろうが、テレビの中に上品な象徴が映ることは少なく、巷で人気のイケメン俳優も、無地のカーディガンを着せられて食レポをしている。人気になるのは庶民派だ。当たり前だ。
まあ、中央線もいいけど三越伊勢丹もいいかもしれない。ということだ。
グローバル・グリーンキャンペーンが終わり、SPANK HAPPY「夏の天才」配信が開始された。
song-xxのライブが見たい。
音楽もラグジュアリーだろう。
とかなんとか思いながら、今日もベローチェの安コーヒーを啜っている。
などと普段なら締めるのだけど。
それも悔しいので、とりあえずスターバックスにいる。禁煙しているという意味だ。