Laundry Land

いよいよ就活生。

シャルドネと花見

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西の方ではとっくだよというなかれこっちも梅雨入り間近、仕事終わりに虹が見えてラッキーと呟くサラリーマン戦士の横に立つ俺だってもうサクマドロップスのハッカ味にギャーギャー言ったりしない大人。誰だって誰かの目に映ってる以上は自分の見せ方を演出しているのが俺の持論と野田クリスタルがようやくラジオで正気を取り戻しつつある2021年5月17日、湿っぽい空気が無性にシャンパンの気分にさせてくるから、今夜は久しぶりにコンビニのスパークリングを装備して2011年6月5日のシャンパン特集を再生中。歌舞伎町の鮨屋女子トイレに貼られた裏メニューその名も姫セットの内訳がAM電波に乗ったこの放送を聴くのももう何回目か分からないけど、番組第8回目にして完成されていたラジオを夜中の横断歩道仁王立ちで聴いている。MPCに火を入れたDJがジャネット・ジャクソン流しながらキャッキャしてるのが憎たらしいので以下2021年2月7日の日記を更新。

 


起きられた自分に感心する。
無理やり自分の財布から会計をして、抱きつく酔っ払いを電車に乗せて、自分の終電がなくなったことに気付いてからの記憶がしかし曖昧。だけど案の定スマホを充電機に装着のうえ目覚ましもかけた数時間後、すりむいた手のひらに舌打ちしながらとにかく仕事には間に合った。


昼に池尻のあたりで予定が終わって、そこから渋谷まで歩いた。春だった。高速道路の看板もいつもより青い。


オードリーのANN、昨日収録した特番の内容を「話していいのかな」を挟まずに話しきった春日にグッドトゥースを感じる。オードリーがテレビで漫才をやったことも分かって嬉しかった、聴き終わってすぐに情報解禁されていた日曜昼の漫才番組は楽しみなメンツ。オードリーがどの立ち位置で出ているのかは気になるけど、漫才師兼MCだとしたら余計に嬉しい。


トイレを借りるつもりで入ったBunkamuraでやっていた写真展に入る。途中で食べた炒飯の具に、おそらく半玉くらいのニンニクが入っていたせいで腹以外が爆発していた。ユーロスペースのトイレがいっぱいだったせいで、もぐりこんだ写真展はなかなかよかった。


『写真家ドアノー/音楽/パリ』
30〜90年代にフランスで活動したロベール・ドアノーの作品群ほとんど全て、音楽家と音楽の流れる場所を写したもの。
流しのアコーディオン奏者ピエレット・ドリオン(と歌唱を担当する相棒)を映したシリーズはどれも完璧で、飯屋やカフェ、移動の河原から肉屋までもが彼女たちの舞台、美しい女が楽器を抱えて歩く生活すら想像させる写真は飽きがこない。けだるそうに、無関心なようにも見える表情でいったいどんな音楽を弾いていたのか、聴けないのが惜しい。
「なぜ二人はポケットの形を変えるほどの小銭ももらえない世界で日銭を稼ぐ生活にこだわるのか、私にはまったく理解できなかった」―― ロベール・ドアノー
写真は真相じゃなくて真実を写すまでで全てなんだということは、少し勇気づけられる気がした。物語を想像させる一枚を撮り続けたい、それは商業作品でもいい、というスタンスと略歴に矛盾を感じることは一切なくなっている。
必ず右側の唇でタバコを咥えるジャック・プレヴェールを写す作品も、チェロ弾きのモーリス・バケと制作した面白シリーズも、とてもチャーミングだった。


センター街は賑やかで、一瞬マスクを外した口元に触れる空気から春の匂いがした、この時期特有の浮き足立つ高揚感にあてられるのは二年ぶりだ。なんらかのチャートに則った商業的選曲だからといって、街中に大音量で音楽が流れている景色はそれでも尊重されるべきものだなと感じて、乃木坂とSUPER VEABERの新曲でさえその場に立ち止まらせる力があった。


渋谷から井の頭線で浜田山という訳もわからない駅で降りる。吉祥寺から乗った相手と各停がぶつかったところを散歩する取り決めだった。ガッツリ話す感じが久しい、と言われて初めて気づいたけどその通りだった。


結局バイトお笑いの話になるけれど、それは自意識と社会との話でもあって、お笑いを通した会話は批評よりも自分ごとになりやすい、なぜなら笑うという現象から始まるから、ということがよくわかった。お笑いの共通言語は、単語は最低限必要なのだけど、現状認識と未来への欲望を同時に考えさせるから非常にいいと思う。未来にフリ続けて現在でボケ続けるのは健康的、これは言い過ぎか。


ボケた芸人が叩(はた)かれる様を見てかわいそうと思うことの野暮さ、みたいなものを確かめ合いつつ、でもお笑いに何かを期待する俺と、現象だけがそこにあって面白いかどうか判断する相手とでは大きく違うことがわかった。作品であれば、常にそこにあるものとして扱えるけど、お笑いは脳内で構築される何かとの差異を楽しむ娯楽になっている。
ザコシが優勝した頃、アイツはヤバイだのイカれてるだの言う人が多かったけど、俺はそれにはピンとこない。そういう奴らは大概サイゼリヤのドリアに自分からタバスコを振りかけて辛い辛いはしゃいでる奴らだ。芸人は確かにヤバイくイカれているかもしれないが、表現しているネタやキャラの群と人格そのものを重ねて評価できると思い込んでいる人の方がイカれてる。
そんなことは別に話していない。酔っぱらったのでほとんど忘れた。
自己紹介のように、私は正気と理性の人だ、と言っているそいつに話を聞くと、それは(自分にとっての)正気と理性ということで、(自分にとっての)を言わない詐欺を真面目な顔で働く相手が自分の友達だというのが嬉しかった。
ママタルトって売れたじゃん?と言うのはもはやバグったやつであり、そんな奴の正気なんてまるでアテにならないのだ。しかしそんな会話こそワインのあてに過不足なく、楽しい。だけどどうやらギガラジオリスナーが「解」を導き出すやつとして他人から無条件無責任な信頼を付与される世界で自分も酔っ払っているらしく、世の中は思ったより見た目や声色で人にかしずく人が多いのだと思った。ここまで五・七・五・七、まーごめ、字足らず。


煙草を吸いに外に出ると、数軒隣の店から女子の歓声が上がっていて、飲み会かと思って見るとガールズバーの店員が客を送り出すところだった。客のクロックスの色を褒めていた店員の一人がロングの茶髪を巻いていて、あの人はそうとうな腕だと、俺はあれがカツラで、地毛は黒のショートだとしてもまったく驚かない、みたいなことを店に戻って話した。クロックスを自然に褒めるために茶髪のカツラを被れるか被れないか、ということは自分ごととして往々にあるわけで、ましてや芸人なんてまさに全員茶髪の職業なから、自分で何かフリを作って楽しむときはそのことも念頭に入れるくらいの感覚は持っていたい、その感覚が鈍れば鈍るほど楽しめなくなるのがガールズバーでありお笑いではないのか。
これらは、霜降がANN0で元気薄いとぼやく相手に、そもそも3時から始まる番組だからじゃないかと指摘したことから始まった会話だった。


マッチョな男は大好きで眺めたいけど、ごはん食べるならやっぱりキレイな女の方がよくて、結局キレイな人に面白いと思われたいなあという俺と、かっこいいじゃなくて面白いなんだねと指摘する、フリートークで他人の輪にカチコミに行きたい欲があると言い出す友達と、ワインを飲む人たちがいた。


昨日はベロベロになりながらも、トムヤムクンで痺れた舌先が触れた白ワインがべらぼうに美味しかった記憶だけは残っていたから、冷えた白ワインを美味しく飲みたい気分だった。浜田山には美味しいワインを飲ませてくれる店があった。桜が飾ってあったので、以上は花見で酔っぱらった阿呆な思い出として記憶してある。


相手もまた正気と理性の品格を示すために日記を書いているので、俺はこの日のことを相手が楽しかったと記している安心感とこそばゆさを全て確認したうえでこれを書いて、寝かすことにする。