Laundry Land

いよいよ就活生。

浪人生で忙しいとか頭沸いてる

浪人生なんて暇だ、暇に決まってる。こんなにストレートに自分が暇であることを告白する身分もない。

もちろん勉強はしてる。それは恐ろしいほどする。だから時間の話じゃない、思考の話だ。
金のないフリーターより親の金で浪人する俺たちの方がよっぽど暇だ。
 
考えてみてほしい。たいていの浪人生は、4月のある時期に「来年の2月の試験で合格するたった一つの目標のためにこの一年は捧げよう」と考える。それから春が来て夏が来て秋が来て冬、そしてようやく試験。
それまでの間、最初に決めた一つの目標は全く手を加えられていない。模試の判定などに悩み、最悪志望校を変更したところで、合格という漠然とした目標は変わることなく自分の貴重な1年の生活に理由と目的を与えている。
ということで手は打たれている。
 
 
ある先生が言った。合格を目指して勉強に励む受験生はある種祈りを捧げるような存在だ、と。祈りを捧げる受験生が集まるこの場所の神聖な空気が好きだ、と。この有り難いお言葉を聞いたセンター直前の受験生達の士気はメーターを振り切っていた。良いか悪いかはともかく。
なるほど、確かにこの駿台御茶ノ水校のこの教室は神聖なのかもしれない。俺にとっては狭くて暑くて隣が臭くて風邪でも移されちゃたまったもんじゃないと気が気でないこの教室はただの教室なんだけど。もしかしたらそれが神聖なのかもしれない。イエスが生まれたのもきったねえ馬小屋だし。
 
 
しかし、具体的な充足感や喪失感を1年後に後回しにして、ひたすら勉強をするという状況は、とても暇なことだとも思わないか?手間や負担は人それぞれでも、今の時代の浪人生で生活することがよっぽど大変な奴なんていないだろう。
 
自分がその時々に感じた喜びや悲しみ、衝動や後悔は全て今の自分を動かす一つの目的意識の下に排除される。受験生の抑制された生活を考えればわかる。日々、何をしようか選択肢を並べ、吟味し、決定する、という誰しもが行う生活を放棄しているのだ。スーパーへ行き、メニューを考えながら食材を選ぶのではなく、真っ先にカップヌードルの売り場へ走るようなものだ。
 
一度決めた目標を盲目的に追い続け、日々を選択する思考を捨てることで日常が色褪せる。
繰り返し言いたいのは、それがいいか悪いかではない。親の期待には答えたいし、いけるのならいい大学に行きたい。
ただ、その目的の純粋さ、正しさは、逆に死ぬほど退屈で暇な生活を生むんじゃないか。
 
 
そもそも、平均寿命80歳のこの国で、成人前の若者にやってくるこの受験というイベント、将来に対する責任度合いが重すぎないか?
 
そろそろ人間的な自立を迎えている頃合いにやってくる受験は、この先一生の地位、収入、家族構成などを決める一大ファクターだ。
まだ将来に夢を見るし、可愛い女の子が気になるし、世の中のことなんて関係ないと思っている俺たちの上に、将来の俺たちの生活がのしかかっている。
 
 
俺たちは一体いつから何に追われているんだ?